一年のはじまりに

年が明けていた。ちゃんと日記を書ける一年にしたい。
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最近ノスタルジックな夢をよく見る。もともと頻繁に夢を見て、そして覚えている方だったけれど、最近は特に。目が覚めた時にいつも少し悲しい。私はいつでも実家に住んでいる設定で、高校に通っていたり、会社に通っていたりする。夫はいたりいなかったりする。実家だと思っていたらおばあちゃんの家の景色に急に切り替わったり、でもやっぱり何もかもが見覚えのある風景で、夢の中の私はそれを当たり前のように受け入れているので、このまま目が覚めない方が幸せだといつも思う。いつかは地元に帰るものだと、そんな訳がないのに、頭の隅で思っている。自分を騙し切れない。地元は好きだけど好きじゃない。田舎特有の狭い人間関係や世間の目が嫌で逃げた癖に、まだそこに固執している自分がもっと嫌になる。

昨年、11月に、実家で飼っていた犬が死んだ。もうすぐ16歳だった。年齢的には充分に生きたと言っていいのだと思う、夏に帰省した時も、そろそろ危ないかもねぇなんて会話を親としていた。彼女はもう2年ほど前から耳は聞こえなくなっていたし、目も大分弱くなっていた。散歩も短い距離しか行けなくなり、多少ボケてきたから夜泣きもするようになっていた。
それでも、いなくなるのは「今じゃない」というか、そう遠くない未来だってわかってるけど今日や明日じゃないと思っていた。夏に会った時、私は彼女に何て声をかけたか覚えていない。頭を撫でて名前を呼んだっけ?いいこだねぇと言っておやつをあげた?後悔なんて言葉は全く似つかわしくない。後悔できるほど私は関わってこなかった。一緒に暮らしたのは最初の5年間だけで、離れていた期間のほうがずっとずっと長かった。その間面倒をみていたのは私の両親だ。心から悲しむには、何もかも遠くなり過ぎていた。
彼女の死を、私はしばらく口に出したりネットやSNSに書いたりできなかった。夫に話したのすら1か月半経ってからで、なんで今まで言わなかったの?と不思議がられた。口に出すと真実になってしまう気がした。どう考えても真実なんだけど。自分でもよくわからない。今でも口に出すのが辛いので、犬の話はしない。でもテレビで柴犬が映ると食い入るように見てしまう。
もう二度と会えないということが、どれほど悲しい事なのか、私は知っている。大切なひとの死はいつもそうだ。消化できず心の奥底に沈殿し、時折表面に浮上する。その頻度が時間と共に減っていくのみで消えることはない。たぶん、ずっと一緒に暮らしてきたとしても、私はこうして悔いているのだろう。死に対して、満足な対応ができることなんであるんだろうか?一生忘れないし一生思い出す。今年の初め、実家に帰り犬の写真をたくさんこっちに持って帰ってきた。どれも若くて元気な頃の写真でとびきり可愛くて、彼女を思い出すときは、元気だった頃の彼女の姿であればよいと思う。世界一可愛かったです。